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5分で分かる石田三成

ここは、石田三成のことを良く知らない方の為に、三成の業績をQ&A形式で簡単に紹介するためのコーナーです。



Q.石田三成って、いつの時代の人なの?

A. 石田三成は1560年(永禄3年)、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年に生れ、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた後、家康によって処刑され、その生涯を終えました。
まさに戦国の世を駆け抜けた人物です。


Q.石田三成って、何をした人なの?

A. 三成は若い頃から、豊臣秀吉に仕え、その覇業を助けるとともに、その政権の中枢で活躍しました。
秀吉が天下をとってからは、いわゆる「五奉行」の一人となり、その政策執行に活躍しました。
秀吉の死後、豊臣政権防衛のため、「関ヶ原の戦い」を起こし、その西軍(豊臣)側の組織者であったことが、三成を特に有名にしています。


Q.石田三成って、どういう性格の人なの?

A. 「太閤記」には、秀吉が三成を登用した理由として、「三成は諫に付ては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり。」と記載しています。
いわゆる、おべっか使いではなく、主君に対し堂々と諫言し、また規律を守る真面目な人柄だったと考えられます。実際、三成が秀吉へ、その考えの間違いを指摘した書状なども残っています。
またその施策をみると、考え方は合理的であり、作家の司馬遼太郎さんは「三成には、近代人のにおいがする。」と言い、堺屋太一氏は三成を、「日本式プロジェクトメーキング方法の元祖」と述べています。


Q.石田三成って、陰険な悪人って聞いたけど…

A. これは徳川政権下で、意図的に三成の悪評が広められたことに、その原因があります。
徳川政権は、豊臣からの政権簒奪を正当化するため、「関ヶ原の戦い」を起こした三成を徹頭徹尾、悪者にしました。
三成を奸臣として非難・中傷する文書は、主に江戸中期以降に作られています。
その結果として、秀吉晩年の悪行は全て三成のせいとされました。三成は秀吉の甥・豊臣秀次を陥れて切腹させ、忠臣・蒲生氏郷を毒殺し、秀吉の側室・淀殿と密通して秀頼を生ませ、その子に天下を継がせようとした極悪非道の悪人にされてしまったのです。
事実は勿論異なります。三成は秀吉・秀次の和解に動き、秀次死後はその旧臣を保護していますし、氏郷の死は病気であることが当時の記録から明らかですし、淀殿が秀頼を身篭ったとき、三成は朝鮮にいました。
これらの詳細は、「石田三成名誉回復論」を読んでくださいね。

しかし結果として、このような三成悪人説が通説として定着してしまい、ドラマや小説でも、ほとんど三成は悪人として描かれています。
このホームページを通じて、少しでも通説と違う三成の姿を見ていただけたら幸いです。