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石田三成名誉回復論

(以下の文章は、1999年7月から2000年1月まで「お城戦国だより」に代表幹事が連載したものです。)




その1「三成は、忠臣の筈なのに・・・??」 その2「最初はそんなに悪くなかったのだけど」
その3「嘘も百回言えば・・・」 その4「一夜の嵐が歴史を変えた・・・」
その5「真実はどこにある!?」 最終回「知られざる石田三成」




◆石田三成、名誉回復論(その1) 「三成は、忠臣の筈なのに・・・??」

 皆さんご存じのとおり、今年の大河ドラマは忠臣蔵からみです。
 昔から、この手の忠義モノは日本人に人気が高いですね。
 忠臣蔵は、主君の仇を討つ、というパターンですが、それ以外にもお家乗っ取りを阻む、というストーリーも人気があります。善玉・悪玉の区分けがはっきりしているところが日本人受けするのでしょうか。
 年老いた主君が若君を残して先立ち、それを見てお家乗っ取りを図る悪家老に先代の忠臣が挑む、・・・となれば善玉・悪玉の組分けは決まったようなものです。
 しかし、その通りの事をしたのに、何故か歴史の中では悪玉呼ばわりされる可哀相な人もいます。石田治部少輔三成などは、その代表格と言えるでしょう。
 三成は、皆さんご存じのとおり関ケ原の戦いで家康に挑んで敗れるわけです。
 で、関ヶ原の戦いはどういう戦いであったかと言えば、単純に言えばこれは家康が豊臣家から政権簒奪するための戦いだったわかです。
 まあ、豊臣政権というのも相当いい加減なところのあった政権だし、時は戦国ですから、「簒奪」という言葉が適当かどうかは分かりませんが・・・ただ家康が、一度は主君と仰いだ人物から、その子の行く末を拝むようにして頼まれ、しかも誓詞まで書いてそれを請負ったにも関わらず、最後にはその子を炎の中で焼き殺した事だけは確かな史実な分けです。
 もちろん家康にはそれなりの事情が、そして豊臣側にはそれなりの落ち度があったわけですが、その史実だけを取り出して日本人の倫理観に照らせば、家康のやった事はどう見ても威張って誉められることでは無いですね。
 それに対し、愚直なまでに主君の遺命に応えようとした三成は、もっと誉められても良いはずです。

 ところが後世の評価はどうか?
・・・というと家康が偉人として祀られているのに対し、三成の評価は可哀想なほどです。
 陰謀家、酷吏、野心家、戦下手、悪辣、権高、虎の威を借る狐、人望がない、冷血なエリート、といった風評が三成にはついてまわっています。
 関ケ原の戦いにしても・・・、
 「あれは三成が、己の野心で起こしたのだ。」
 「三成に人望が無かったから勝てなかったのだ。」
・・・と言われ続け、それだけならまだしも・・・、
 「秀吉の正室北政所は、三成より家康に天下を取らせたかったのだ。」(?)
 「三成が乱を起こさなければ、家康は天下をとる気は無かった。」(??)
 「秀吉は、最初から家康に天下を譲る気だった。」(???)
・・・と言われるに至っては、もう何を言わんや、というとこがあります。
 まあ、それはさておき、「義の人」であった筈の石田三成が、何故このように悪く言われねばならなかったのでしょうか。
 そして忠臣蔵の好きな日本人が、「忠臣」三成には何故かくも冷淡なのか、そもそも石田三成とは本当に巷間言われるような冷血な小人物だったのでしょうか?
 私はもちろん石田三成という人物が好きなのですが、ちょっとこの場を借りて、三成を好きな人にも、そうでない人にも、「通説」の冷血漢とは違う三成像をご紹介したいと思います。
 そして歴史の「通説」といものがいかに創り出されていくかの例を書きたいと思います。

(・・・続く)




◆石田三成、名誉回復論(その2) 「最初はそんなに悪くなかったのだけど」

 生前から敵の多い人ではありましたが、前奉行という肩書はあったにせよ、なにせ僅か所領20万石の中堅領主が、250万石の家康と五分に渡り合った分けですから、
「敵ながら天晴れ。」
という雰囲気は、死後間もなくまでは確かにありました。
 有名なところでは、かの水戸黄門こと徳川光国が三成の事を、「義臣」と 高く評しています。
 これは光圀の言葉をまとめた「桃源遺事」に出てくる話で、意味を書き下すと・・・

「石田三成は立派な人物だ。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。徳川の敵といって、三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ。」

・・・といった風に述べています。

 また三成の子孫も、それなりに遇されました。三成の兄や父は、関ケ原のあとの佐和山攻めで皆討ち死にしてますが、長男は助命され、いろいろ辛苦は嘗めましたが、援助する人もおり、その後妙心寺の宗主となっています。
 次男は津軽家に保護され、その家系は代々家老職を努めて明治にまで至っています。津軽家には、その後三成の娘も嫁ぎ、三代藩主の母となっています。津軽家が三成の子孫を保護した理由は幾つかあるでしょうが、英邁な三成の血脈を自家に入れたい、という気持ちは確かにあったでしょう。
 また三成の家臣で生き残ったものの中には、他家に高禄で迎えられたものもいます。小早川浪人などは、関ヶ原の戦場での振る舞いを非難され、再仕官の口が無かったと言いますが、それとも大違いだった分けです。
 この様に関ケ原戦の直後は、別に三成は、ことさら矮小視され、奸佞視されることも無かったのです。
 その風向きが変わってくるのは、徳川体制が固まってくる江戸中期頃からです。

 江戸中期以降に成立した徳川の伝記(「武徳編年集成」等)は、例外なく三成小人論を展開してます。現代でも時代劇などで良く見られる、陰険な三成のイメージは、この頃から形づくられていったのでした。
 この辺の三成がことさら悪人化され、奸佞邪視されてくる過程は、手近に手に入る本では、小和田氏著作「石田三成」(PHP文>庫)に要領よくまとめられています。

 このような三成像の変容は、徳川政権の統治方針の変化に密接に関係しています。
 ちょうどこの頃、徳川政権は、体制の安定化のために、武断主義から文治主義に切り替え、朱子学を重んじ、上下関係を明確にしようとしていました。
 その徳川政権の開祖たる徳川家康が、武力で強引に政権を簒奪する人物では困るのです。家康はあくまで道義を守る人物でなければならなかったのです。
 幕府の御用学者・林羅山などは
「秀吉は、秀頼に天下を治める器量が無ければ、家康に取って代わるように遺言した。」
 という話まで創作しました。秀頼の行く末をひたすら気遣う遺言状を残している秀吉が、そんな事を言うわけは無いのは明らかでしょう。

 そして家康の行いを正当化する為には、家康に敵対する人物は、徹底的に悪人、奸佞な人物でなければならなかったのです。
 その最大の標的にされたのは、三成と淀殿でした。

(・・・続く)




◆石田三成、名誉回復論(その3) 「嘘も百回言えば・・・」

 前号までで、三成悪人論が徳川幕府の御用学者によって生み出されていった経緯を示しました。
 しかし、これらの通説にとどめを刺したのは、幕末に編纂された頼山陽の「日本外史」や飯田忠彦の「野史」です。この中で、三成は徹底的に陰謀家、姦臣視されました。
 三成は、「関白秀次誅殺」「千利休切腹」「蒲生氏郷毒殺」「加藤光泰暗殺」事件のそれぞれ首謀者であり、戦さは下手のくせに権勢欲だけが強く、自己の野心の為には手段を選ばぬ、主君の側室とさえ通じる人物とされ、現代に残る三成姦臣論が完成します。
ところで、これらの書物を書いた、頼にしても飯田にしても、幕府の御用学者ではありません。在野の人物です。(ちなみに、個人的には「日本外史」の歯切れの良い文体は好きなんです。三成の記述さえ除けば・・・)
 これら権力におもねる必要の無い人物ですら、三成姦臣論を展開したということは、もう幕末のこの時期には、幕府によって作られた三成像が一般に真実として流布されていたことが分かります。

「嘘も百回言えば、本当になる。」
 という言葉がありますが、このように一度定着してしまったイメージを覆すのは容易ではありません。これは現代でも良く経験するところで、根拠の乏しい噂やゴシップでも、マスコミによって広く報道されると、あたかもそれが真実のように、少なくともかなり本当の部分を含んでいるかのように、受け取られてしまうのですね。
 「否定の論証」というのは、本当に困難です。特に三成のように、権力側に史料が消された人物にとっては。
 この稿を読んで頂いている方の中にも、あるいは・・・
「お前は、三成姦臣論は幕府によって作られたというが、お前が言うのはいわば状況証拠ばかりで、直接に三成の冤罪を証明する証拠を何も提示してないじゃないか。」
・・・と言われる方もおられるかもしれません。尤もな事と思います。
 幕府が倒れた明治以降、渡辺世祐氏、徳富蘇峰氏らの碩学によって三成の再評価がされていますが、史料の不足によって、これらの人ですら情状酌量的な議論にとどまっているところもあります。

 ところが三成がこの世を去ってから360年経った昭和34年のある嵐の夜、三成の人物像見直しの大きな転機となる一つの事件が起きました。

(・・・続く)




◆石田三成、名誉回復論(その4) 「一夜の嵐が歴史を変えた・・・」

 昭和34年9月26日の夜、東海地方を超大型台風が襲いました。
 死者4,487名、負傷者66,442名、木曽川が決壊し、名古屋の下町に水が溢れました。
伊勢湾台風です。
 この台風の余波は、愛知県下のとある旧家にもちょっとした事件をもたらしました。
 家の土蔵が崩れたのです。この家の主、吉田さんは、この機会に土蔵の中身を整理することにしました。
 その中には先祖が伝えた、大量の古文書がありました。
 こうして土蔵の中で朽ち果てる運命だった、一つの史料が世に出たのです。

 「前野家文書」、一般に「武功夜話」と呼ばれている史料です。

 「武功夜話」は尾張の土豪であった前野一族の武功を記した古文書です。
 前野一族は古くから織田氏に仕え、信長・秀吉・家康の時代に活躍し、蜂須賀小六とも姻戚関係にありました。一族の高名な人物では、信長に仕え後に信雄の守役となった前野家十五代当主雄善や、その弟で秀吉・秀次に仕え出石十八万石の領主となった前野長康らがいます。
 前野長康は秀次事件に連座し切腹・改易され、本家も十六代の孫四郎の時に清洲城で不祥事を起こして帰農し、姓も吉田に改姓します。帰農した吉田孫四郎は、先祖の書き残した文書類をまとめ、その功績を後世に残すことにしました。これが前野家文書−「武功夜話」−として伝わったものです。
 前野家文書は、「武功夜話」として総称されていますが、中身は孫四郎により編纂されたと思われる「武功夜話」本巻二十一巻の他、その娘千代女が書き足した「先祖等武功夜話」(武功夜話拾遺)や「家伝記」「永禄墨俣記」「前野村由来記」「前野村由緒書」「前野氏系図」などよりなっています。
 「武功夜話」本巻は、前野長康の日記「五宗記」に基づいている、と言われています。そこには通説を覆す三成像も描かれているのです。

 その「武功夜話」描くところの三成像を書く前に、まず「武功夜話」自体のことについてもう少し書きましょう。
 皆さんの中には、
「武功夜話って、何か胡散臭い史料って聞いたけど・・・。」
という人はいないでしょうか?
 「武功夜話」の誤りを指摘するものとしては、例えば墨俣一夜城の記述があります。
 「太閤記」における虚構の産物と思われていた墨俣一夜城の記述が、なぜか「武功夜話」の中には存在し、しかもその内容がどう見ても軍事常識に反しているのです。
 この指摘は全く正しく、つまり「武功夜話」の中(特に千代女が書き足した部分など)には、かなり信憑性の低い史料も混在しています。
 この辺から「武功夜話は胡散臭い。」といった見解も出てくるのですが、これは「武功夜話」を出版したS社のやり方にも問題があると個人的に思っています。この社は「武功夜話」全巻を刊行したという点では意義深いのですが、その「武功夜話」本編を出す前に、「武功夜話のすべて」という、同書から一般受けしそうな部分のみを抜き出した本を、信憑性の充分な吟味のないままに出版しています。これが「武功夜話」全体が色眼鏡で見られることになった、一つの理由であると思うのです。
 しかしながら「武功夜話」の中でも「五宗記」に基づいた部分の信憑性は高く、これは多くの研究家に認められているところです。
 それでは、その中で三成はどのように描かれているのでしょうか?

(・・・続く)




◆石田三成、名誉回復論(その5) 「真実はどこにある!?」

 嵐の夜に世に出た新史料「武功夜話」には、果たしてどのような三成像が書かれていたのでしょうか?
 武功夜話に初めて三成の名が登場するのは、天正十一年、三成が大坂築城で諸事勘定役をつとめたときの事です。その時から、前野長康が切腹して果てるまで、文禄の役、秀次事件などで折につれ三成の名が登場します。
 そこに描かれる三成の姿は、通説として巷間に罷りとおっている陰険な陰謀家の三成、戦下手の三成像とは大きく異なるものでした。

 武功夜話が語る三成像、その中で今回はまず関白秀次切腹事件を取り上げたいと思います。
 これは、皆さんご存知のように太閤晩年の暗黒事件の一つであり、時の関白・豊臣秀次が素行不良という良く分からない理由で改易・切腹させられ、その縁者は年端のいかない子供まで処刑されたという痛ましい事件です。
 秀次は「殺生関白」などとも言われていますが、実際は学問好きの穏やかな性格だったとの話もあり、一般にはこの事件は、三成ら秀吉側近が秀次を陥れたものと言われ、陰謀家・三成像を世に印象づけた事件となっています。

 ところで前にも書いたように、武功夜話の元となったという前野長康の日記「五宗記」、その五宗記の作者である前野長康は、関白秀次の側近(後見役)でした。この史料は言うなれば、事件の当事者の証言になるわけです。
 事件の当事者は、果たしてどのような記録を残しているのでしょうか?
 その武功夜話の記述を述べる前に、順番としてこの関白秀次切腹事件が、従来の通説ではどう取り上げられてきたか、振り返っておきましょう。

【通説での秀次事件とは?】
 文禄年間初頭、秀吉の後継者は関白秀次と決まっていた。しかし秀吉側近である権勢家・石田治部少輔三成は、もし秀吉が嵩じその後を関白秀次が継げば自分の権力が失われるのを怖れていた。一方で自分の子を秀吉の後継者としたい淀殿も秀次を疎んじていた。
 利害の一致した三成と淀殿は、結託して秀次排斥へ動き出す。三成は秀次の側近・木村常陸介のもとに間者を入れ、秀次の動静を事細かに調べ、事あるごとに秀吉に悪し様に報告した。やがて秀吉・秀次の間に不和が生まれ、自暴自棄になった秀次は不穏な行動を取り始める。
 好機とみた三成は、秀次をその行跡が不穏であるとの理由で取り押さえ、妻子含み皆殺しにしたのである。

・・・と、まあこんなとこでしょうか? この手の通説の元になっているのは、「甫庵太閤記」や「伊達成実記」など、後世のものや当事者以外の証言です。信憑性に問題があるのは言うまでもありません。
 では、当事者である前野長康はどう言っているのか、前野長康の証言です。(なお一部、前野長康家臣である清助の覚書の記述を含めております。)

【武功夜話より、前野長康の証言】
 文禄二年に秀頼殿が生まれてから、太閤秀吉殿と淀殿は、秀次公を疎んじはじめました。私(前野長康)は、石田三成殿、細川幽斎殿らと話し合い、何とか事態の収拾を図ろうとしました。三成殿は「豊家の内紛は、その滅亡につながる。」と大変憂慮されておられました。
 文禄三年の終わりになると事態は益々悪化し始めました。この時、頼みの三成殿は、薩摩の検地のあと常陸の検地に赴かれており、都には不在でした。
 文禄四年になり、私と木村常陸介は、増田長盛殿と長束正家殿に呼び出され、両人から秀次公の素行について尋問を受けました。我々は無論、秀次公の弁明に勤めました。
 ですが、その後に三成公に別室に呼ばれた私は、今回の尋問が単なる素行の問題ではなく、謀反の嫌疑であることを知らされました。毛利輝元が、秀次公から求められた連判状を、謀反の証拠として太閤に提出したというのです。
 三成公は、「都を留守にしていた為、事態がここに至るまで何の手も打てず、申しわけない。」と述べ、「これは豊家内部の力を削ごうとする、外様大名の陰謀である。今はともかく自重するように。私が太閤に執り成す。」と述べられました。
 しかし三成公が動くより早く、翌日には太閤の問責使・前田玄以殿が秀次公の元を訪れ、「謀反の意志が無いなら、自ら太閤の元へ出頭せよ。」と強い調子で述べられました。そしてその翌日、伏見の太閤の元へ赴いた秀次公は、太閤へ会うことも適わず、そのまま捕らえられ高野山で切腹を命じられたのです。

・・・前野長康の証言は、大体このようになっています。
 長康自身は、三成の奔走により事件への連座を免れますが、結局その後責任をとって自ら自害します。
 相反する二つの史料があり、真実がどこにあるかを知るのは難しいですね。
 ただ私は、最後に秀次の遺臣の多く、特に「若江の八人衆」と呼ばれる重臣が事件後、三成に仕えたことを述べておきたいと思います。
 もし三成が、真実、自分の主君を陥れた人物なら、その重臣たちが果たしてそういう人物にすぐ仕えることが出来るものでしょうか?

 秀次事件の考証はこれくらいにして、次回は通説の「戦下手」像を打ち破る、名戦略家・三成の姿を紹介したいと思います。

(・・・続く)




◆石田三成、名誉回復論(最終回) 「知られざる石田三成」

 石田三成にかなり好意的な人でも、三成が武略に優れていた、という人はいないようです。
 関ヶ原で敗れ、小田原の役の際に忍城攻めで苦杯を嘗めたという三成には、「戦下手」という風評が付き纏っています。
 しかし、それは真実の姿なのでしょうか? 本当に戦下手な人間が、関ヶ原で天下分け目の大決戦を行えるものなのでしょうか?
 この稿を終えるにあたり、今回は通説の「戦下手」像とは違う、知られざる名戦略家・三成の姿を、その朝鮮の役での活動から追っていきたいと思います。

 朝鮮の役とは、日本側にとっても朝鮮側にとっても辛く長い戦いでした。戦国の世を戦い抜き、装備に優れた日本側は緒戦こそ快調に勝ち進みますが、やがて異民族間戦争の泥沼に落ち込み、朝鮮の役末期には、朝鮮南岸の城におし詰められた状態になります。たとえ秀吉の死が無かったとしても、いずれ日本側の撤兵は必然であったでしょう。
 その朝鮮の地に、三成が在陣総奉行として渡ったのは、開戦から三ヵ月後の天正二十年七月、まだ日本側が緒戦の勝利に沸き立っていた頃でした。小西行長が平壌を落とし、加藤清正が明国境まで進み、年内には「唐入り」が実現するかに思われていた頃です。
 この渡海直後、三成が書いた興味深い書状が残っています。その書状の中で三成は、日本側が無計画に戦線を拡大しすぎていることを憂慮し、このままでは補給が続かなくなり、朝鮮の地に日本人はいなくなってしまうだろう(日本人は無人に罷成候)と言い切っています。これは朝鮮の役のその後を言い当てたものでした。
 三成は諸将を漢城に招集し、戦線の縮小と民政の安定を説きます。ですが緒戦の勝利に気を良くしている諸将には受け入れられません。後に三成と共に講和交渉の先頭に立つ小西行長ですら、この時は主戦論を述べたことが、「黒田家譜」に見えます。三成は孤立し、日本側の戦線はバラバラに延びたままでした。
 明けて文禄二年一月、三成の予言が的中し、朝鮮の役最初の危機が日本側を訪れます。凍結した鴨緑江を越え、明の援軍四万が到着したのです。平壌の小西軍は一蹴され、鳳山の大友吉統は逃亡、日本側の前線は総崩れになります。
 この危機を救ったのが三成の戦略でした。三成はこの時、前線にある拠点のうち補給に不利な所を全て放棄し、漢城周辺に大軍を終結させて、明を迎え撃つ戦略を立てたのです。だが諸将に自分らの城を放棄させるのは容易ではありませんでした。
「明の多勢に、奉行は臆病風にふかれたのか!」と罵った小早川隆景、
「米が無くて戦えぬというなら、砂を食ってやる。」と嘯いた加藤光泰、
彼らは容易に退却に同意しませんでした。特に開城(ケソン)という要衝の守備についていた小早川隆景は、撤兵を強硬に拒否します。
 開城という地は臨津江の北方に位置し、確かに軍事的には極めて重要なポイントです。かなり後の話ですが朝鮮戦争の時、この地は北朝鮮軍の第一目標となりました。この開城を撤兵することは、今の北朝鮮にあたる部分を無血で放棄することになりますから、隆景が反対したのも理由の無いことではありません。
 ですが大河の向こうにあるこの開城は、補給路を絶たれると脆い面を持っていました。三成は隆景に対し、補給の困難さ・兵糧の現在量・彼我の兵力差をとき、開城での長期戦を不可と説得して退却させ、漸く反撃の為に軍を集結させます。

 三成の戦略は当たりました。自軍の退却により時間を稼ぎ、漢城北方に軍を集結できた日本側は、急追してきた明軍を碧蹄館の地で迎え撃ち、これに大打撃を与えることが出来たのです。
 この碧蹄館の戦いでは、戦場で巧緻な戦術を見せた小早川隆景、立花宗茂らの活躍のみが後世に喧伝されて、三成の活躍はほとんど無視されています。
 ですが、もし三成がいなければ、碧蹄館に至る前に日本側は個別撃破され、更に容易ならない事態となったことでしょう。

 碧蹄館の戦いの後、戦線は一時膠着状態となり、三成はこの機に講和交渉に入ります。しかし三成が望んだ講和は、清正・秀吉らとの衝突により実らず、さらに戦いが続いたのは皆さんご存知のとおりです。

 ……ちょっと文章が長くなりすぎたようなので、少し言葉足らずですが、この辺で終わります。もっと詳しくお知りになりたい方は、拙著「石田三成−武将としての資質・忍城攻めと文禄の役に見る高度な戦略眼」(学研歴史群像シリーズ55石田三成所収)をお読み下さいませ。

 これで六回に渡った「石田三成名誉回復論」を終わります。ご愛読いただいた方ありがとうございました。石田三成という人間の人物像に、少しはイメージと違う側面を見ていただけたでしょうか?
 もし三成に興味を感じられましたら、是非「石田三成のホームページ」にもお越しください。ホームページ上では、「オンライン三成会」の会員募集も行っております。
 丁度タイムリーに、大河ドラマ「葵三代」の放映も始まりました。これらが江戸期に作られた三成奸臣像の見直しの切っ掛けになれば幸いです。
 では、またネットワーク上のどこかでお会いしましょう。

(・・・終わり)