検証・石田三成

本文は、佐賀郁朗氏が長浜タウン誌「みーな」に投稿されたものを加筆修正し、本ホームページに寄稿いただいたものです。

三成は北政所派だった


文:佐賀郁郎氏



 江戸時代の「史書」では、三成は神君徳川家康に戦いを挑んだ逆臣であり、野望を全うするために秀吉に讒言し、関白秀次を追い落としたりした奸臣とされた。また、関ヶ原合戦の時、北政所は淀殿憎さから、甥の小早川秀秋に三成(淀殿派)等の西軍に裏切りを命じたと記されている。
 明治になっても、この流れは変わらず、三成研究のバイブルとされている渡辺世祐『稿本石田三成』(明治四〇年版)にも、三成、淀殿派が唱えられている。

*でっちあげられた三成淀殿派

 渡辺世祐が根拠とした頼山陽の『日本外史』は、次のように述べている。

 「秀吉の夫人は浅野氏にして、北庁(きたのまんどころ)と称す。淀君の寵を専にするに及んで、北庁、勢を失ふ。石田三成・増田長盛・小西行長・大野治長ら、皆淀君に附く。加藤清正・福島正則ら、北庁の親属たり。敢て附かず。清正、行長と外征の将となり、功を争って相ひ悪し。(中略)秀頼生まるゝに及んで、諸将益々淀君に党す」(巻之二十)

 頼山陽は何を根拠にこのような説を唱えたのであろうか。『日本外史』以前には、『甫庵太閤記』(寛永初期刊)を含め、三成を淀殿派と決め付けた記述は見当たらない。

 今日の北政所派と淀殿派の対立の定本となっている徳富蘇峰の『近世日本国民史』(大正十一年刊「関ヶ原の役」)にも、『日本外史』を翻案し、次のように記している。

「秀吉の閨中に、北政所党と淀殿党とのできたのは、確実だ。(中略)北政所は年とともに色は衰え、しかも子女はなく、淀殿は秀頼は生れ、婦人としての盛時の極点には達しつつある。この際において、この勢力を利用せぬほどの馬鹿はあるまい」

 私は加藤清正・福島正則等の武断派と石田三成・増田長盛等の文治派の対立の構図を否定するものではないが、両派の宿命的な対立を安易に出身地とからめて淀殿・近江派と北政所・尾張派との女の争いと矮小化するのは、歴史を客観的に論ずるものとは言えまい。

*北政所は三女・辰姫を養女とした

 通説のように、三成は淀殿派ではなく、北政所と親密な関係にあった証拠が、津軽藩に仕えた三成の遺児たちの家系の由緒書に記されている。

 三成の次男杉山源吾を祖とする津軽藩家老「杉山家由緒書」や次女の嫁いだ蒲生家の重臣岡半兵衛重政の子孫の「岡家由緒書」には、源吾の妹を娘と偽って、「女・太閤政所御養女ニナリ、津軽信枚室、信義母、称大館御前、津軽家敷居上野大館」とある。

 大館御前とは三成の三女で、津軽藩二代藩主信枚に嫁し、三代藩主信義を生んだ辰姫のことである。北政所は三成をたのんだからこそ、豪姫(宇喜多秀家に嫁いだ)とともに辰姫を養女として手元で養育し、津軽信枚に嫁がせたのだ。

 歴史学者は系図を史料とすることは問題があるという。しかし、私は徳川政権下に成立した軍記物や史論よりは、ひそかに書きつがれた系図のほうに、真実がかくされていると主張したい。関ヶ原合戦から四百年を機会に、歴史家たちが石田三成は淀殿派であったという先入観を捨て、新しい視点から三成を論じてほしいと願うものである。