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検証・石田三成

三成の忍城攻め

三成は一般に、武将としては有能ではない「戦下手」であると言われています。
しかし、私自身、三成の事績を調べていくと、どうしても通説で言われるような「戦下手」の三成像は浮かんでこないのです。
もちろん三成は戦場を縦横に疾駆する勇将というタイプではありませんでしたが、その戦略眼は確かなものだったと思います。
三成の戦歴のうち、北条攻めの一環である忍城攻め、文禄の役、関ヶ原合戦等についての私の検証結果については、いくつかの一般出版物に掲載いただいています。
このうち、三成の忍城攻めについては、98年1月発行の学研歴史群像「石田三成」、99年4月発行の秋田書店「歴史と旅−石田三成の真実」等に掲載しました。この検証結果については、その後、長浜市学芸員の太田氏等多くの方々に評価していただけいています。
以下に示すのは、そのうち秋田書店「歴史と旅」に寄稿したもので、雑誌掲載時はPN小村勇太郎名で投稿しています。

***忍城に関しては「武蔵・忍」の記事も参照ください。     




忍城攻め−戦国の中間管理職・三成の悲劇

***秋田書店「歴史と旅」99年4月号 特集「石田三成の真実」所収。
編集部校正前の初稿につき雑誌掲載分と一部異なっています。


一、三成にとっての忍城攻め

 忍城攻めは、三成の武将として戦歴の中で、特筆すべきものである。
 その理由は二つある。 一つは、これが三成が一軍の大将として臨んだ初めての戦であること、もう一つは、真偽については後で論じるが、この戦が三成の武将としての能力不足、いわゆる「戦下手」を満天下に示したもの、とされていることである。
 三成の忍城攻めとは、一体どのような戦いで、それは本当に三成に武将落第の烙印を押したものなのだろうか。三成の忍城攻めを巡る真相を、この場で検証してみたい。


二、通説での忍城攻め

 三成の忍城攻めは、天正十八年(1590年)六月、秀吉の小田原攻めと平行して行われた。この時、秀吉は大軍を率いて小田原城を囲んでいたが、それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略することとした。その一隊の大将に三成が任じられたのである。三成が率いるのは盟友・大谷吉継、長束正家の他、佐竹義宣、多賀谷重経、北条氏勝、真田昌幸ら東国の大大名ら総勢二万三千余の大軍であった。当時の三成の身分や他の別働隊の将の顔ぶれから見ると、これは大抜擢であったと言える。
 大軍を率いた三成は、まず館林城に向かいこれを降伏、開城させる。次ぎに向かったのが忍城である。忍城は関東七城に数えられる程の名城であり、城の周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず、城攻めは難渋を極めた。
 三成の忍城攻めの様子は、「関八州古戦録」「成田記」等、江戸期に成立した多くの軍記物に記されている。軍記物の記述による「通説」での忍城攻めの様相を振り返ると、それはこんな具合である。

 城攻めの上手くいかない三成は、近くの小山(丸墓山)に登って周囲の地形を俯瞰し、秀吉の備中高松城攻めに習って、この忍城を水攻めにすることを思いついたという。三成は、早速近在から十万の人夫を集め、忍城を囲む堤を作り、城を水没させようと企てた。計数に長けた三成らしく、堤はわずか5日で完成、城の廻りに水がたまり始めた。ところが、ある日突然大雨が降りだして堤が決壊。濁流は城ではなく、寄せての三成らに襲いかかり、水攻めは失敗に終わる。水の退いたあとは以前にも増した泥濘地となって、城攻めどころではなくなった、というのである。

 忍城は、結局寄せての城攻めでは落城せず、小田原で秀吉に帰順した城主・成田氏長の勧告により、一ヶ月以上の籠城のあと、ようやく開城した。
 城方の十倍近い大軍で攻めながら、城を落とせなかったということから、この忍城攻めは三成の武将としての能力欠如を示す例として、よく引き合いにだされる。


三、水攻めに不向きな忍城

 軍記物での忍城攻めを見る限り、三成の不手際は弁護の仕様もない。しかし、江戸期に作られた三成の逸話は、ほとんどが三成を意図的に貶めているため、完全には信用できないだろう。もっと忍城攻め当時の同時代史料や、今に伝わる遺構などの物証から、忍城攻めの真実を調べられないだろうか。

 現在の忍城跡は、埼玉県行田市の郷土博物館となっている。周囲の低湿地はすっかり埋め立てられていて、当時の様子を偲ぶことは難しい。だが三成が本陣を構えたという、丸墓山から忍城を望むと、この水攻めが困難を極めたことを窺い知ることができる。忍城の周囲は全くの平坦地で、周囲に丘陵等、自然堤防にあたる地形はない。また厳密には忍城の本丸付近は、三成が堤を築いた下堤、堤根付近など比べ、地形的に僅かに高地になっている。このことは城を完全に水没させるには、極めて大規模な築堤が必要なことを意味する。

 忍城は、別名浮き城と呼ばれていた。水害の際でも水を被らないことから、その名がついたという。この城は、水没させるのは困難な城だったのである。


四、難航する水攻め

 忍城の水攻めは難航した。通説では、三成はわずか5日で堤を完成させたことになっているが、当時の書状からは、水攻め開始から一ヶ月後、開城寸前の時点でも、なお築堤工事が行われていたことが読みとれる。
 しかし三成は、この城を水攻めにすることの困難さに、本当に気づいていなかったのだろうか。
 実は、水攻め開始直後の六月十二日付の書状で、三成はこの様に述べているのである。

「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、(中略)然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」(忍城攻めのことについては、大体準備はできました。しかし諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。)

 水攻めと決めてかかる諸将の消極さを嘆く三成、そこから読みとれるのは、水攻めに批判的な三成の姿である。
大将の三成自身が、水攻めに批判的なら、水攻めを命じたのは誰なのだろう。


五、水攻めに固執する秀吉

 一方で、この時期の秀吉の書状を見ていると、秀吉が実に細かく水攻めの指示をしていることが分かる。水攻めが始まったのは六月十日であるが、十二日付けの書状において、すでに秀吉は三成に対し、水攻めの方法、戦後処理などについて細かく指示を出している。また二十日付けの書状では、三成に水攻めの絵図を提出させ、「築堤が進んだら使者をだして自分の承認を受けるように(普請大形でき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候の条)」と述べている。

 忍城を水攻めにすることに固執する秀吉の姿は、七月三日の浅野長吉あての書状にも現れる。この時は、浅野長吉が忍城攻めで武功をあげたことを誉めたのち、こう付け加えている。「忍城攻めで首三十とったのは結構なことだが、忍城はともかく水攻めにする。このことしっかり申しつける。(とかく水責仰せ付けらる事候間、其の段申し付くべく候也)。)」

 これらの書状から分かるように、忍城を水攻めにするという方針は、三成の考えというより、秀吉からの指示であった。
 水攻めとは、莫大な費用と時間がかかる戦法であり、さらに城だけでなく近郷の田畑までを水没させ、荒れ地に変えてしまうという点からは、周囲に及ぼす影響の大きい危険な戦術でもあった。当時一介の奉行に過ぎない三成の判断で、成し得ることでは無かったのである。

 一方で水攻めという戦術は、秀吉が自分の富と力を関東の新参諸将に見せつけるには、絶好の方法でもあった。秀吉は、書状の中で、諸将をつれて水攻め見物に出かける(「水責めの体、御見物なさるべく候条」)、と高らかに宣言している。
秀吉は小田原攻めでも、敢えて石垣山に一夜城を築くという演出を行って、諸将の度肝を抜いた。同じように、忍城では、城のあたり一面を湖に変えるという、東国諸将には思いもよらない城攻めの演出を行いたかったのではないだろうか。
 秀吉にとって忍城攻めは、ただ城を落とすことだけでなく、水攻めという秀吉の富をもってしか成しえない城攻めを行ない、そのやり方を新参諸将に見せつけることが大きな目的であった。そして計数に長けた三成を大将に抜擢したこと自体が、忍城を水攻めにすることを前提とした人事であった、と考えられるのである。


六、戦国中間管理職の悲劇

 忍城は、水攻め困難な城であり、三成もそのことは理解していた。それでも、なお三成は水攻めに固執する秀吉の命に応え、大堤防を築きあげ、水攻めを行なった。その堤防の総延長は約二十八キロメートルにおよぶ。これは、備中高松城水攻めの4倍以上の長さであり、忍城攻めは、水攻めとしては戦国合戦史上最大規模である。しかし、その大堤防をもってしても、浮き城忍城の水没は困難であった。
 現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応える三成の姿、そこには現代へも通じる中間管理職の悲劇が透けて見える。

 三成の忍城攻めは、確かに手際は良くなかったかもしれない。しかし、今まで見てきたように、それには随分と同情の余地がありそうだ。三成は秀吉に命じられた条件下で、ベストを尽くすしかなかったのである。
 忍城攻めに関しては、興味深い事実がもう一つある。忍城を三成の下で、共に攻めた武将は先にも書いたように、大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、多賀谷重経、真田昌幸らであるが、これらの諸将は、その後、関ヶ原の戦いでほとんどが三成方、または三成寄りの行動をとっているのである。
 徳川家康相手の大戦で、彼らが己の運命を三成にかけた理由は何だろう。忍城攻めを間近で見ていた彼らは、「戦下手」という通説のイメージとは違った三成の姿を、見ていたのではないだろうか。