肥前・名護屋

謎残る三成陣跡
―――石田殿御本陣にて候、一人すすしき地形に候―――


(文禄・慶長の役日本側出撃拠点――名護屋城本丸天守台跡より玄海灘を望む)

  

御とうちんのうしろのかたのみねニハ、石田殿御当陳にて候。一人すすしき地形に候。
前の方のみねニハ大たに殿御とうちんニ候。其前ニハ景勝之御陳に候。

(佐竹家被官・平塚滝俊の書状。肥前・名護屋での陣配置に言及した貴重な資料である。原文のまま。)

  



肥前・名護屋――

秀吉の朝鮮出兵の出撃拠点となった、肥前名護屋。
そこには、巨大な城跡の他、諸将が名護屋城の周囲に築いた自らの陣跡が多数あります。
城周辺は諸国の軍勢でごった返し、その陣地で、「野も山もあく所なく候」といった状態であったと、当時の史料は伝えています。

その中には当然、三成の陣跡もありました。
ところが今に伝えられる三成の陣跡は、名護屋城からかなり南に隔たった不便な位置にあります。
唐津街道を抑える要衝の地であった、という人もいますが、海を越えたこの戦いで、港から隔たった山中に、三成ほどの地位を持った人物が布陣しているのは不自然です。三成ならば、当然本営である名護屋城の傍に布陣するのではないでしょうか?

三成の陣跡で不思議な事は、まだあります。
戦いの開始直後に佐竹家の被官・平塚滝俊が送った書状によれば、三成の陣跡は城のすぐ北側の大変良い場所(すすしき地形)を占めている、とあるのです。

これらの矛盾、不自然さの残る数々の謎は、何を意味しているのでしょうか?
もし伝聞・史料とも正しいとすると、戦いの始まった直後、良い位置を占めていた三成の陣跡は、戦いの終わりごろには、何故か名護屋城から遠ざけられた位置に追いやられたように思えます。
即断はできませんが、私は文禄・慶長の役の間に三成の地位に何らかの変化があったのではないかと感じています。
もっと推測を逞しくすれば、講和派であった三成は、文禄の役の講和交渉の中で秀吉の意思と対立し、慶長の役では秀吉に遠ざけられていたのではないか、という気がしています。
このことは他の史料からも裏付けられそうに思いますが、この立証には時間がかかるかもしれません。




  




            ――――名護屋付近の遺構

            名護屋付近の三成および文禄慶長の役関係の遺構です。



  


名護屋城・山里口

   名護屋城の絡め手にあたる山里口の石垣です。
   城では現在、保存活動が進んでいます。
伝・三成陣跡・遠望

   三成陣跡とされるところは、名護屋城よりずっと南方に
   下がった野元という集落のあたりにあります。
   唐津街道を抑える要地ではありますが、
   三成の地位を思うと不自然な感は拭えません。
伝・三成陣跡・土塁

   伝三成陣跡にある土塁です。
   土塁は長方形に作られ、歩測すると長辺が40m程度、
   短辺は10m以上あります。
   入り口と思しき場所は食い違い虎口状になっており、
   加工痕のある石が散乱しています。
伝・三成陣跡・土塁(その2)

   人物の横にある盛り上がったところが土塁です。
   かなり崩れてますが、高さは0.5〜1m程です
伝・三成陣跡・入口

   三成陣跡の入口です。金網で仕切られた蜜柑畑の
   向こう側の藪の中に陣跡はあります。
   私有地なので、立入には地主さんの許可を貰ってください。
伝・生駒親正陣跡

   生駒親正の陣跡と伝えられる場所です。
   しかし平塚書状からは、この場所の方が三成陣跡に
   比定できるように思えます。
   場所は名護屋城の北方・波戸岬の方にあります。
   当初、ここに布陣していた三成は、その後南方に陣を
   移したのではないでしょうか?
   この陣跡は、今は自然公園になっていますが、
   遺構は一部残っています。