近江・佐和山

江戸期に徹底的に破壊された三成の居城
―――三成に過ぎたるもの二つあり―――


(佐和山城本丸跡の城址碑)

  

おおれは都の者なれど、近江佐和山見物しょ、大手のかかりを眺むれば、金の御門に八重の堀、まずは見事なかかりかよ、うらの御門をまず出てて、北を眺むれば、すそは湖やや見事。良い城よ見事な城よ堀ほりあげて、せきしょをうえて、せきしょに花が咲きしならば、この城ほりは花盛り

(多賀町に伝わる、かんこ踊りより)

  


佐和山城


 【城 跡 名】佐和山城
 【所 在 地】滋賀県彦根市
 【交通機関】JR彦根駅下車 本丸跡まで徒歩約30分
 【築城年代】鎌倉期
 【廃 城】1606年
 【形 式】連郭式山城(比高136m)
 【主要城主】石田三成、堀秀政、堀尾吉晴、丹羽長秀、磯野員昌ら
 【遺構】曲輪跡、堀切、土塁、隅石(わずか2個)、井戸(千貫井戸)など

  



近江・佐和山――

三成の居城として有名な佐和山城。
その佐和山は古くは佐保山と呼ばれ、琵琶湖北東岸に位置し、中山道と内海を望む水陸の交通の要衝にあります。
この地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代の土豪・佐保氏と言われています。
戦国期は浅井方の勇将・磯野員昌が居城し、織田方と激戦を繰り広げました。
石田三成が、ここ佐和山に入城した時期については、諸説ありますが、天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)頃と言われています。前の城主・堀尾吉晴の後を受けての入城でした。城主となった三成は、すぐに領民を動員し城の大改修に乗り出したことが、当時の書状に見えます。
佐和山城は、往時は山頂に五層の天守が高くそびえたち、中山道から見あげると、その先端は雲に隠れて見えないほどだ、と言われました。
規模は壮大ですが、しかしその機能的な面以外は際めて質素な作りだったようです。
有名な逸話として、関ケ原戦後にやってきた東軍兵士が、佐和山の三成屋敷にきた時に、「権勢を際めた三成のことなので、さぞ中も華美をつくしたものだろう。」と思っていたところ、壁は粗壁、何の装飾もない質素な作りで驚いたとの話があります。(甲子夜話)
佐和山城は、井伊氏の彦根築城の際に徹底的に破城されました。石材等は彦根築城に流用され、総石垣であった本丸も今はわずかに隅石二個が残るだけです。
しかしそこを訪ねれば、その縄張り・土塁などから往時の様子を偲ぶことは可能です。




  




            ――――佐和山城の現状

            佐和山城の現在の姿です。



  


佐和山城大手口跡

   佐和山城の大手口跡です。
   中央の山が佐和山です。
大手付近の土塁

   大手付近の田圃の脇には、今も土塁跡が残ります。
   国道8号線の歩道拡幅工事で一部が削られました。
本丸跡からの眺望

   本丸跡から彦根城を望みます。
   関ヶ原の後に、この地へ移ってきた井伊氏は彦根山に新たに城を築きました。
   その際、佐和山城の石材等を用い、佐和山は徹底的に破城したとされます。
本丸跡の隅石

   総石垣であった佐和山も今は隅石二つを残すのみです。
   この隅石は本丸から少し下ったとこにあります。(案内板あり)
   この場所から推算すると、往時は高さ10m以上の高石垣が
   存在したことになります。
城跡に残る井戸−千貫井戸

   城祉に残る井戸跡。今も水をたたえています。
   千貫にも替えがたいといことから、その名がついたといいます。
二の丸下大堀切

   破城された佐和山城ですが、特に大手側には多くの遺構が残り、
   この城の堅固さを伝えます。
   写真は二の丸下の大堀切跡。
   写真では分かりづらいですが、人物の左右が高さ3m以上に、
   V字型に切りこまれた堀切となっています。
大手側水の手

   大手側二の丸・三の丸尾根の間の沢筋に、
   水の手と伝えられるところがあります。
   左の写真がそうで、画面やや右手に水の流れがあります。
   往時はこの沢も堰きとめて、飲用に用いていたものと思います。
馬冷池

   水の手の下流にある馬冷池。
   古図にも見られるこの池は、その名の通り、
   馬を洗うために、使われたのかも知れません。