西暦 |
元号 |
年齢 |
業績 |
1560 |
永禄3 |
1 |
近江国坂田郡石田郷に生まれる。幼名佐吉。
【補足】
石田氏は、この地方の土豪であったとする見方が一般的である。
特に、三成の父・正継(為成)は、この地方の有力者であり器量人であったことが、観音寺関係の史料から窺える。
|
1574 |
天正2 |
15 |
このころ近江にて秀吉に見いだされ、その家臣となったとされる。仕官に際しては有名な三献茶のエピソードがある。(「砕玉話」)
【補足】
なお家臣となったのは三成が18才、秀吉が姫路にいる時だとする説もある。(「妙心寺寿聖院・霊牌日鑑」)
「霊牌日鑑」の記述も、当時の三成の石高を五百石とするなど、そのまま信じにくい部分がある。
秀吉の当時の近江経略拠点・横山城は、三成の出生地・石田の直近にあり、この地方の有力者であった父・正継と秀吉の繋がりから、三成が秀吉の家臣となったと考えるのが自然では無いだろうか? |
1577 |
天正5 |
18 |
秀吉の中国攻めに従う。 |
1578 |
天正6 |
19 |
秀吉の三木攻めに従う。 |
1581 |
天正9 |
22 |
〔10月〕 秀吉の鳥取城攻めに従う。
〔11月〕 仙石秀久とともに淡路攻めに赴く。 |
1582 |
天正10 |
23 |
〔5月〕 備中高松城攻めに従う。
〔6月〕 秀吉の中国大返し、山崎の戦いに従う。 |
1583 |
天正11 |
24 |
〔3月〕 秀吉に従い、近江佐和山城に行く。柳ヶ瀬の柴田軍の動向を探り、秀吉に報告する。(称名寺文書。「三也」の初見である)
〔4月〕 賤ヶ岳の戦いに参加し、「先駈衆」として功名をあげたとされる。(「一柳家記」。ただし原文の記述では、武功を挙げたのが三成であったかどうか、明言を避けた表記になっている)
〔5月〕 直江兼続に書を送り、秀吉・上杉の同盟を斡旋する。
この年、近江・水口4万石の城主となり、また名将・島左近を召し抱えたとされるが、これには異説が多く、そのまま信じることはできない。「多聞院日記」の記述に従うと、左近が三成に仕えたのは1590年以降となる。
また最近の研究では、左近は秀吉の直臣であり、その命により三成の与力になったのだ、とする説もある。(坂本雅央氏「平群谷の驍将 嶋左近」 平成14年8月) |
1584 |
天正12 |
25 |
〔3月〕 秀吉に従い、小牧に出陣する。
〔11月〕 近江国蒲生郡の検地奉行をつとめる。 |
1585 |
天正13 |
26 |
〔7月〕 従五位下治部少輔に叙任される。
〔8月〕 越後の落水城にいき、直江兼続とともに秀吉・上杉景勝の会盟に立ち会う。
この年五奉行に任じられたとの説もあるが、これには異説が多い。 |
1586 |
天正14 |
27 |
〔6月〕 上杉景勝上洛し、秀吉に謁見する。三成がこれを斡旋する。
〔6月〕 堺の奉行となる。 |
1587 |
天正15 |
28 |
〔3月〕 秀吉の島津攻めに従う。
〔5月〕 島津降伏。三成は抵抗を続ける新納忠元の説得を行う。
〔6月〕 博多町奉行となる。 |
1588 |
天正16 |
29 |
〔6月〕 島津義久、秀吉の謁見するため上京する。三成これを斡旋する。
この年堺町奉行を兄の正澄に引き継ぐ。 |
1589 |
天正17 |
30 |
この年、美濃を検地する。 |
1590 |
天正18 |
31 |
〔3月〕 秀吉の小田原攻めに従う。
〔5月〕 佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋する。
〔閏5月〕 佐竹、大谷らと館林城を攻める。
〔6月〕 佐竹・真田らと忍城を攻める。
【補足】
この忍城攻めが、有名な三成の水攻めであるが、首尾よく行かず、三成の戦下手ぶりを示したものとされる。しかし当時の秀吉の書状等を読む限り、水攻めは秀吉の細かな指示によるものと考えられ、三成自身は水攻めに批判的であったと判断される。⇒忍城攻め
〔7月〕 豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴く。
〔10月〕 奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じられ、再度奥州へ赴く。
この年、近江・佐和山19万4千石の城主となったとされるが、佐和山城主となったのは、1595年の秀次処罰時であり、この時の加増は美濃・近江で5万石程度とする説もある。 |
1591 |
天正19 |
32 |
〔4月〕 南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。 |
1592 |
文禄1 |
33 |
〔2月〕 朝鮮出兵の準備のため、肥前・名護屋へ行く。
〔6月〕 大谷吉継らとともに在鮮軍の奉行を命じられ渡海する。
〔7月〕 朝鮮・漢城(ハンソン)にて出陣諸将を集め、いわゆる漢城会議を開く。
→その直後、この出兵を批判する書を国内に送る。
【補足】
これが三奉行連署状であり、三成がこの戦いの行く末を見通していたものとして注目される。三成はその後、講和成立へ向けて尽力している。 |
1593 |
文禄2 |
34 |
〔1月〕 碧蹄館の戦い。三成は、開城(ケソン)の放棄および漢城近郊での迎撃戦を主張。主戦派の諸将を抑えてこの戦略を実行し、朝鮮軍を破る。この後、開城無断放棄を問責する使者が来るが、三成は自己の責任で対応する。
〔2月〕 幸州山城の戦い。三成最前線で督戦し、負傷する。
〔9月〕 肥前・名護屋へ戻る |
1594 |
文禄3 |
35 |
〔9月〕 島津の領国を検地する。
〔10月〕 佐竹の領国を検地する。 |
1595 |
文禄4 |
36 |
〔2月〕 蒲生氏郷病没。この後の蒲生家転封に伴い、蒲生家牢人を多数召抱える。
〔7月〕 秀次、秀吉に処刑される。秀次改易に伴う牢人を多数召抱える。 |
1596 |
慶長1 |
37 |
〔3月〕 佐和山領内に十三箇条掟書、九箇条掟書を出す。
〔6月〕 明の講話使節を接待する。講話決裂し、秀吉、再度朝鮮出兵を行う。 |
1597 |
慶長2 |
38 |
小早川秀秋、秀吉の譴責に触れ領地没収。三成、秀秋の旧領の代官となる。 |
1598 |
慶長3 |
39 |
〔8月〕 秀吉死す。三成は在鮮軍を撤収させるため、浅野長政らと博多に赴く。 |
1599 |
慶長4 |
40 |
〔1月〕 徳川家康、秀吉の遺命に背き大名間の婚姻を行う。三成は前田利家らとこれを問責する。
〔2月〕 前田利家、三成ら五奉行と家康が和睦する。
〔閏3月〕 利家死す。三成は加藤清正ら七将の襲撃を受ける。その後佐和山に退隠する。
【補足】
なおこの際、三成は伏見の徳川家康屋敷に難を逃れた、とする書物が多いが、これは誤りであり、三成が入ったのは伏見城内の自屋敷であったことが、最近の研究で論証されている。(笠谷和比古氏「関ヶ原合戦と近世の国制」第二章 豊臣七将の石田三成襲撃事件 平成12年12月) |
1600 |
慶長5 |
41 |
〔6月〕 家康、上杉攻めの為に出陣
〔7/2〕 三成、大谷吉継に家康打倒の挙兵への協力を求める。
〔7/17〕 二大老・四奉行の名を持って、家康に対する檄文発する。
〔7/29〕 三成、佐和山を出て伏見城攻めを督戦する。
〔8/5〕 三成、真田昌幸に書を送り、激励する。
〔8/9〕 三成、六千余騎を率いて垂井へ出陣。大垣城へ入る。
〔9/12〕 三成、毛利輝元の出陣を促す。
〔9/14〕 島左近、杭瀬川で東軍の中村隊を破る。
〔9/15〕 関ヶ原で東西両軍が戦い、三成敗走。
〔9/21〕 三成、近江・古橋で田中吉政に捉えられる。
〔10/1〕 三成、六条河原にて処刑される。 |