×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 

石田三成の生涯略歴

ここで示したのは、石田三成の生涯の主要な事績のみを年表的にまとめたものです。
新人物往来社「石田三成の全て」の年表を参考にしています。
ただし三成の、特に前半生は良く分かっていない点も多く、異説があるものも多くあります。異説はできるだけ加筆するようにしましたが、書ききれていない部分もあります。

※年齢は数え年です。



西暦 元号 年齢 業績
1560 永禄3

近江国坂田郡石田郷に生まれる。幼名佐吉。
【補足】
石田氏は、この地方の土豪であったとする見方が一般的である。
特に、三成の父・正継(為成)は、この地方の有力者であり器量人であったことが、観音寺関係の史料から窺える。

1574 天正2 15

このころ近江にて秀吉に見いだされ、その家臣となったとされる。仕官に際しては有名な三献茶のエピソードがある。(「砕玉話」)
【補足】
なお家臣となったのは三成が18才、秀吉が姫路にいる時だとする説もある。(「妙心寺寿聖院・霊牌日鑑」)
「霊牌日鑑」の記述も、当時の三成の石高を五百石とするなど、そのまま信じにくい部分がある。
秀吉の当時の近江経略拠点・横山城は、三成の出生地・石田の直近にあり、この地方の有力者であった父・正継と秀吉の繋がりから、三成が秀吉の家臣となったと考えるのが自然では無いだろうか?

1577 天正5 18

秀吉の中国攻めに従う。

1578 天正6 19

秀吉の三木攻めに従う。

1581 天正9 22

〔10月〕 秀吉の鳥取城攻めに従う。
〔11月〕 仙石秀久とともに淡路攻めに赴く。

1582 天正10 23

〔5月〕 備中高松城攻めに従う。
〔6月〕 秀吉の中国大返し、山崎の戦いに従う。

1583 天正11 24

〔3月〕 秀吉に従い、近江佐和山城に行く。柳ヶ瀬の柴田軍の動向を探り、秀吉に報告する。(称名寺文書。「三也」の初見である)
〔4月〕 賤ヶ岳の戦いに参加し、「先駈衆」として功名をあげたとされる。(「一柳家記」。ただし原文の記述では、武功を挙げたのが三成であったかどうか、明言を避けた表記になっている)
〔5月〕 直江兼続に書を送り、秀吉・上杉の同盟を斡旋する。

この年、近江・水口4万石の城主となり、また名将・島左近を召し抱えたとされるが、これには異説が多く、そのまま信じることはできない。「多聞院日記」の記述に従うと、左近が三成に仕えたのは1590年以降となる。
また最近の研究では、左近は秀吉の直臣であり、その命により三成の与力になったのだ、とする説もある。(坂本雅央氏「平群谷の驍将 嶋左近」 平成14年8月)

1584 天正12 25

〔3月〕 秀吉に従い、小牧に出陣する。
〔11月〕 近江国蒲生郡の検地奉行をつとめる。

1585 天正13 26

〔7月〕 従五位下治部少輔に叙任される。
〔8月〕 越後の落水城にいき、直江兼続とともに秀吉・上杉景勝の会盟に立ち会う。

この年五奉行に任じられたとの説もあるが、これには異説が多い。

1586 天正14 27

〔6月〕 上杉景勝上洛し、秀吉に謁見する。三成がこれを斡旋する。
〔6月〕 堺の奉行となる。

1587 天正15 28

〔3月〕 秀吉の島津攻めに従う。
〔5月〕 島津降伏。三成は抵抗を続ける新納忠元の説得を行う。
〔6月〕 博多町奉行となる。

1588 天正16 29

〔6月〕 島津義久、秀吉の謁見するため上京する。三成これを斡旋する。

この年堺町奉行を兄の正澄に引き継ぐ。

1589 天正17 30

この年、美濃を検地する。

1590 天正18 31

〔3月〕 秀吉の小田原攻めに従う。
〔5月〕 佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋する。
〔閏5月〕 佐竹、大谷らと館林城を攻める。
〔6月〕 佐竹・真田らと城を攻める。
【補足】
この忍城攻めが、有名な三成の水攻めであるが、首尾よく行かず、三成の戦下手ぶりを示したものとされる。しかし当時の秀吉の書状等を読む限り、水攻めは秀吉の細かな指示によるものと考えられ、三成自身は水攻めに批判的であったと判断される。⇒忍城攻め


〔7月〕 豊臣秀次、大谷吉継らとともに奥州仕置を命じられ南部領に赴く。
〔10月〕 奥州で一揆が起き、浅野長政とともに一揆鎮定の軍監を命じられ、再度奥州へ赴く。

この年、近江・佐和山19万4千石の城主となったとされるが、佐和山城主となったのは、1595年の秀次処罰時であり、この時の加増は美濃・近江で5万石程度とする説もある。

1591 天正19 32

〔4月〕 南部九戸の乱鎮定に軍監として赴く。

1592 文禄1 33

〔2月〕 朝鮮出兵の準備のため、肥前・名護屋へ行く。
〔6月〕 大谷吉継らとともに在鮮軍の奉行を命じられ渡海する。
〔7月〕 朝鮮・漢城(ハンソン)にて出陣諸将を集め、いわゆる漢城会議を開く。
     →その直後、この出兵を批判する書を国内に送る。
【補足】
これが三奉行連署状であり、三成がこの戦いの行く末を見通していたものとして注目される。三成はその後、講和成立へ向けて尽力している。

1593 文禄2 34

〔1月〕 碧蹄館の戦い。三成は、開城(ケソン)の放棄および漢城近郊での迎撃戦を主張。主戦派の諸将を抑えてこの戦略を実行し、朝鮮軍を破る。この後、開城無断放棄を問責する使者が来るが、三成は自己の責任で対応する。

〔2月〕 幸州山城の戦い。三成最前線で督戦し、負傷する。
〔9月〕 肥前・名護屋へ戻る

1594 文禄3 35

〔9月〕 島津の領国を検地する。
〔10月〕 佐竹の領国を検地する。

1595 文禄4 36

〔2月〕 蒲生氏郷病没。この後の蒲生家転封に伴い、蒲生家牢人を多数召抱える。
〔7月〕 秀次、秀吉に処刑される。秀次改易に伴う牢人を多数召抱える。

1596 慶長1 37

〔3月〕 佐和山領内に十三箇条掟書、九箇条掟書を出す。
〔6月〕 明の講話使節を接待する。講話決裂し、秀吉、再度朝鮮出兵を行う。

1597 慶長2 38

小早川秀秋、秀吉の譴責に触れ領地没収。三成、秀秋の旧領の代官となる。

1598 慶長3 39

〔8月〕 秀吉死す。三成は在鮮軍を撤収させるため、浅野長政らと博多に赴く。

1599 慶長4 40

〔1月〕 徳川家康、秀吉の遺命に背き大名間の婚姻を行う。三成は前田利家らとこれを問責する。
〔2月〕 前田利家、三成ら五奉行と家康が和睦する。
〔閏3月〕 利家死す。三成は加藤清正ら七将の襲撃を受ける。その後佐和山に退隠する。
【補足】
なおこの際、三成は伏見の徳川家康屋敷に難を逃れた、とする書物が多いが、これは誤りであり、三成が入ったのは伏見城内の自屋敷であったことが、最近の研究で論証されている。(笠谷和比古氏「関ヶ原合戦と近世の国制」第二章 豊臣七将の石田三成襲撃事件 平成12年12月)

1600 慶長5 41

〔6月〕 家康、上杉攻めの為に出陣
〔7/2〕 三成、大谷吉継に家康打倒の挙兵への協力を求める。
〔7/17〕 二大老・四奉行の名を持って、家康に対する檄文発する。
〔7/29〕 三成、佐和山を出て伏見城攻めを督戦する。
〔8/5〕 三成、真田昌幸に書を送り、激励する。
〔8/9〕 三成、六千余騎を率いて垂井へ出陣。大垣城へ入る。
〔9/12〕 三成、毛利輝元の出陣を促す。
〔9/14〕 島左近、杭瀬川で東軍の中村隊を破る。
〔9/15〕 関ヶ原で東西両軍が戦い、三成敗走。
〔9/21〕 三成、近江・古橋で田中吉政に捉えられる。
〔10/1〕 三成、六条河原にて処刑される。